赦し
土下座してあやまるのが、ちょっとした流行らしい。
「半沢直樹」で「土下座して謝れ」…とやっていたのを見て、なんだか不快だった。大ヒットドラマだし、こんなふうに感じてしまう私の方がおかしいのかも? と見た直後は思っていたけれども、放送からしばらく経ってみると、どうやら私と同じように違和感や不快感を感じた人はいるらしく、ちらほら同意見を見かけるようになった。
私は、「土下座」自体は否定はしない。ただし、あくまで赦しを請う本人が、ただ謝罪の言葉を述べるだけでは足りないと考えて、自発的に無意識に行う場合に限る。他人が「謝れ」「土下座しろ」と迫る光景を見るのは、実に嫌なものだ。
形だけの土下座も願い下げ。謝罪の気持ちの伝え方は土下座だけではない。土下座などしなくても、たとえ「ごめんなさい」と言葉にしなくても、伝える方に真心があって受ける方に受け入れる気持ちがあれば、どんな伝え方をしても、謝罪は受け入れられるだろうと思うから。
二言目には「すみません」と言う人がいた。そそっかしい人でよくミスをしていたのは確かだけど、たいしたことでもないのに「すみません」と言うのが、丁寧なようで度が過ぎていて、うっとうしかった。ある日、こちらが仰天するような大ミスをしでかしたので、今回ばかりは「すみません」の言葉を素直に聞けると思っていたのに、日頃あれだけ連発していた「すみません」を言わなかった。どうやらあの「すみません」は「すまない」「申し訳ない」という気持ちから出ていたのではなくて、ただの口ぐせだったらしい。
言葉だけ、形だけの謝罪は、相手にもそのことは伝わる。言葉だけ、形だけの謝罪を、心の底から受け入れて、赦す気になれるだろうか?
赦す気持ちを持てない相手に、何度土下座しても、何百回「ごめんなさい」と言っても、謝罪したことにはならないと思う。世の中には「ごめん」ではすまされないこともあって、赦す気になれない相手から謝罪の言葉を聞かされても、赦すことはないから、「謝罪」という行為はお互いにとって無駄な行為でしかない。だから、そういう場合は、「謝罪」を受けないですむように、接点を極力排除することにしている。
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